2025-1-5(作業日誌538)

2015年 1月5日(日) 晴れ 自宅
 昨夜、テレビで再開された「新・暴れん坊将軍」を見たが、恐ろしくつまらなかった。ネタバレ作品な上に、悪人役に魅力がないというよりも、多分、脚本がつまらないというか練られていないのではなかったか。テレビで折角の時代劇復活が一発目でこけた感じだ。
 正月から5日間がたった。この5日間で、今日が一番のんびりした日であったような気がする。一応、ノルマにしたA4一ページ分は書いたが、此の先どうなるか。別の作品で書いていたものがいまのところ役立っているが、やがてネタ切れになるので、その先をすこしでもイメージしておかなければならないが、コタツに入ってうつらうつらしていたが、なにも浮かんでこなかった。これで、明け方の半睡半醒でなにも浮かばなくなると、ピンチだぜ。


 1月4日(土) 晴れ 自宅 
 『空のリュックサックを背負って』という小説を書き始めているが、なかなか書き進められない。『やし酒飲み』のような世界を、現在の日本や世界のさまざまな状況を、『やし酒飲み』の主人公とその妻が、死んでしまったやし酒作りの男を探しに行き、出会う現実の、あるいは非現実的な、まさしく神話的な物語の世界のさまざまなシーンのように描きたいのだが、どのように描けばいいのか、状況を思うように表現できないので、描き進めることができない。ということはわかっているのだが、わかっていると言って書けるわけはないのだが、そこで、想像力が問題となってくる。で、うまく状況を設定できないのだ。ということまではわかっているのだが。
 たとえば、異常気象、原発問題、ゴミ問題、地震災害などを、物語の上で、どのような状況として描き出せばいいのだろうか。
 想像の中の風景、瓦礫の都市の描きかた。今まで書いてきた世界にそのような世界があったのではないか。そいつを、『空のリュックサックを背負って』の世界に移し替えることはできないのだろうか。いや、できるはずである。
 そこをなんとか描きだすことが、今年の書くこと、その試みであるはずだ。
 で、少なくとも1日A4一枚は、なにがなんでも書くこと。老害的な想像力を遺憾なく発揮せよ、だよね。
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 A4のノルマ。今は、私は瓦礫の街にいる。ガザだ。

ハン・ガン著『別れを告げない』(白水社(2024/4/10 初版 2,800円税別)を読み始める。ぐんぐん読める。この作家の、物語と自分の思い、生活、気持ちなどと絡ませて紡いでゆく文章、人に読ませる、人を巻き込んでいく力、文章力にはすごいものがある。
それにしても、読んでいるこちらが苦しくなる文章だ。

 1月3日(金) 晴れ 自宅 『菜食主義者』
 昨年のノーベル文学賞受賞のハン・ガン(韓江)の小説だ。菜食主義者、蒙古斑、木の花火と3つの中編小説だがひとつの長編小説でもある。2002年から2005年に書かれているので、もう、20年以上も前の小説だが、読後感に古さはまるで感じられない。なるほど名作ということになるが、作者は「すっかり忘れていたのに、読み返すと、力んでこんなことを書いていたのを思い出します」と2011年に述べているので、現在の作者の立ち位置が気になる。ほかの小説も読んでみようと思う。それにしても、自分の書いているものと比べると、僕が書いているものはえらく薄っぺらに思えてしまう。と言って、この『菜食主義者』のようなシリアスなテーマのものを取り上げる力は、僕には全くない。なんとか書き上げた『リヤカーとサーカス』など、彼女の作品に比べれば、ほぼ子供騙しのような作品に思える。といってシリアスなものを書けるとは思えないので、自分の書けるものをシコシコと書き続けるしかないだろう。
              
 81歳になって迎えた正月に考える。
 この歳ならでは自由を大事にする。他者との関係、知らない人との関係に、丁寧さ、優しさを持って、接すること。それが、自分をある意味、自由にするのではないか。
サーカス学校での生徒との対話を、ひとつひとつ、注意深く、考えながら言葉を交わしていく。さて、何が生まれてくるだろうか。
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『今の一当は昔の百不当の力なり』(曹洞宗の祖・道元禅師)「百の失敗があるからこの成功がある」の意味。対極に現在に失敗の許されない社会がある。
(恐山菩提寺院代 南直哉(じきさい) 2025/1/1  朝日新聞・朝刊)
 今、サーカス学校は生徒が来ないので、完全に行きづまっているこの一事を持って、僕がやってきたサーカスの活動はすべて失敗だったとみなすと、どうなるのか。わからないが、折角、ここまでやってきて、それが無駄であったと考える必要はないというのと、確かに無駄ではなかったにしろ、それらをすべて捨ててしまうとすると、その先に何が見えてくるのだろうか。
捨てるといっても、実は、資料など物質的な物の処理は、金銭的にもすごく大変で、頭が痛いのだが、それとは別に、それらからわが身を引き離すとどうなるのか。実は考えはそちらに大きく傾いていて、その先に何かを見出そうとしている自分がいる。

 1月2日(木) 晴れ 自宅 書きつづけること
 元旦に考えたことの続きだが、人とのコミュニケーションが難しい状況で自分を守るというか維持するためには、僕の場合は、とにかく書くことではないかと思う。
 昨年暮から朝井リョウの『生殖記』(2024/10/7初版 1,700円+税)を読んでいた。
帯に、「ヒトのオス個体にたどる⚪️⚪️目線の、、、、」とあるが、つまり人間のオスとして能力である生殖機能、それが生き物のように語る物語。その男がホモであって、しかも世の中で、共同体や種の拡大、発展、成長へ繋がる“次”を遂行し続けることで幸福度を高めている個体〜幸福度が共同体に依っている一般的な個体とは真反対の生き方をしている男・尚成の物語である。尚成はいかに人々、世の中の成長路線から外れて、自分の好きな食べ物にこだわり、自分の体を大事にして生きていくか。これが成長を求め続ける社会への痛烈な批判になっているのだが、この世の中とは直接的な関わりを持たない生き方をしている人々が結構たくさんいるのではないかと思えるし、そうした人々が大勢いるが故に、さまざまなことが解決しないような気がするのだ。そうなるとこれからの世の中がどうなっていくのか。あるいは、人類というか少なくとも日本という国は滅びの歴史を刻み始めているのかもしれない。人々とのコミュニケーションで言葉が上滑りしているような気がしているのは、僕が年をとっているかもしれないが、あるいはそれ以上に、世の中全体が、言葉が見つからないが、溶け始めているからかもしれない。
それは誰も止められない崩壊のプロセスかもしれない。

 1月1日(水) 晴れ 自宅 新年の抱負?
 新しい一年が始まったというか、これから先の日々をいかに過ごすか、その過ごし方あるいはなにか目標があるわけではないのだが、この新しい年を迎えて、これまでとは何かが違う生き方をしなくてはいけない気がしている。多分、もうそれほど長くは生きられないという気がするからかもしれない。
 あるいは、最近、他人というか人と心が通うようなコミュニケーションが取れていないと思うからかもしれない。無視されているというのとは違うが、先方はタダ、じじぃと会話しているというか、彼らには関心のない老人の話としてしか受け取られていないような気がするのである。それは僕が老人になっているという、ただそれだけのことかもしれないのだが、であれば、自分より年下の人に関心を持ってもらうことなどはもはや無理であると諦観して、自分としてさて何ができるかを考えて、無理に若い人々とのコミュニケーションをとろうとせずに、これからの生きている時間を大事にしていこうということである。
 そのように考えると、明らかに昨日までの自分とは違う日々の過ごし方を、そこに創造的とまでいかなくても、新しく何かを作りだすことを模索してもいいのであはないか、そんな気がするのである。

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