2025-2-20(作業日誌547)

2025年 2月20日(木) 晴 自宅
 コロナ後遺症から脱出できたか、今朝は、ここしばらく感じなかったほど、気分がすっきりしている。あれ? コロナに罹る前の、目覚めってこんなにすっきりしていたかというほど、爽やかである。こんな目覚めがいつも続くのであれば、ラッキーというか、毎朝の目覚めが楽しくなるのだが。まあ、そうは問屋がおろすまい。
 どちらにしろ、コロナに罹り後遺症にやられ、1、2月は散々だったので、これを機会にいろいろと考えを整理したいと思う。第一に、サーカスそのものが流行化しているような状況から、ちょっと距離を取ろうというもの。SNSで、やたらにアップされるようなサーカスがとにかく自分たちはこんなに素晴らしい活動をしていると言ったものが多く、個人も自分の技量PRで、何を問題にしているか、ほぼ問題は何もないというか、問題そのものがないのではと思えるのだが。

 2月19日(水) 晴 イロデンクリニックへ
 イロデンクリニックへ行き、採血してもらう。コロナ入院後、イロデンからでいる薬を飲んでいないので、体調がどうなっているか確認してもらおうと採血を。来週早々にクリニックへ行き、確認しようと思う。
 山際壽一著『猿声人語』を読む。22年出版の本で、コロナ流行中のバタバタについていろいろと書かれている。遅ればせにコロナに罹った私には、当時のドタバタ、あるいは今になって自分がコロナに罹って生きるの死ぬのの緊張感はないが、そうだったよな思うこと多し。それにしても、当時、後遺症はあまり取り上げられなかったような気がするが、実際コロナに罹り、その後遺症にかなりいためつけられたので、コロナ厄災は馬鹿にできないし、新しいウイルスがもたらす病気には相当気を使うべきだと、今さながら、感じている。

 2月18日(火) 晴 自宅 コンビニまで散歩
 まだコロナ後遺症から抜けきっていないのだろう。どうしても、いまひとつやる気が出てこないのだ。しかしこの状態が続くのであれば、このやる気の出ない状態をうまくだましだましやっていくしかない。まずは『リヤカーとサーカス』を完成させることだ。1日数ページでいいから校正を。
 コロナ感染自覚前に、あるいは味覚音痴になっていたのか。いや、感染していたので、味覚音痴になっていたのかもしれない。
 とにかく、入院する前、何日か、食べ物の味があまりしなかったような気がする。このところ、塩味が強すぎると女房殿に話をしていたのだが、当時の味の変化はあまり味がしないというものであった。もう一月も前のことなので、曖昧な記憶だが。
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 今朝はコロナ後遺症の気配なし。気分も悪くないが、太腿の筋肉は相変わらず曲げると痛む。これも後遺症なのだろうか。
 『リヤカーとサーカス』校正少し進むが、ペースは鈍いまま。
 コロナに罹りまだ本調子ではないが、この調子の悪さや読書ペースの遅さなどなど、逆手に取るというか、うまくいい方向に利用できないか。年とともに色々と忘れていくし、できることもどんどんなくなる以上、日々の時間をうまくというか有効に活用したいと思えば、とにかく愚痴言わず積極的に明るく物事を考えるようにしたいよね。さもないと残り少ない時間を生かせないことになる。

 2月17日(月)曇り
 コロナ後遺症か、昨日は、1日、ボーとしていた。特に午後3時過ぎから調子悪し。
 このところ、あまり具合悪くならなかったので、後遺症からも解放されたかと思ったが、後遺症というのは出てきたり出てこなかったりするのだろうか。そうだとすると、えらく面倒くさいシロモノということになる。
『リヤカーとサーカス』校正進まず。
 
 2月16日(日)明け方、雨がぱらつく
 今日もほぼなにもできないというかやる気が起こらない。どうにか「足芸奇譚」の校正を済ます。20分程度の作業なのだが、午後3時過ぎまで、取り掛かることができずに、無為に時を過ごしてしまう。
 もはやコロナ後遺症からは解放されていると思うのだが。このだらけたもまたコロナ後遺症なのか。いや、そのせいにしているだけのことで、ただ、怠けているに違いないのだが。
 コロナ流行以前から、というのは、すでに10年ぐらい前、つまり2015年頃から、サーカスを見に海外に出かけるというのが、個人的に飛行機を利用することが環境に負荷をかけているんだよなと思い、果たして飛行機を利用してまで海外にサーカスを見に行くだけの必要性があるのかと思うようになっている。世界的にサーカスにしろ大道芸や演劇フェスティバルがここ2,30年の間にかなり盛んになってきて、サーカス関係者としては喜ばしことと認識しなければならないと思いつつ、それが大衆のエンターティメント産業として発展していることに、どこか気持ちの悪いものとしての感じられ、個人的には、サーカス、大道芸、フェスティバルから身を引いている自分を意識せざるを得ないのだ。一言で言えば、“違う!”という感覚なのだ。自分が考えるサーカスの世界、大道芸の世界は、客受けして、投げ銭を稼ぐではないという思いが、現在のそれらを見ていると、じわじわと湧いてきて、どこか腹立たしくさえ感じられるのだ。
といって、自分が納得できる、これだという作品や大道芸を探しているかといえば、そうした行動は取っていないので、あれこれケチをつける資格はないのだが。
このように書けば、必然的に、あちこちの大道芸フェスやサーカスを見にき、そこにちらりとであれ、自分が求めているものを探すべきではないのか。そうしたパフォーマンスで戦っているアーティストを発見すべきであろう。

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