2025-10-31(作業日誌598)
2025年 10月31日(金)曇り後雨 葉山帰り
朝6時45分に資料館を出て、葉山に向かう。順調に車は進み、11時4 5分に駐車場着。使用時間はジャスト5時間。雨に降られずに済む。
コンビニで購入したパンで昼食を済ませ、昼寝。4時過ぎから新聞整理。
10月30日(木) 晴れのち曇り サーカス学校
午前中、大間々のセキチューへ。電池やらトイレットペーパーなど買出しに。
太田市の青少年剣山育成表彰式のイベントとしてのサーカス学校公演の件で、トラブルというか、リハーサル時間が取れないなどの問題が生じて、少しゴタゴタするが、前日にリハーサルを行うことで解決。
*
ロシアのツィチーの奥さんゾフラさんが急逝された連絡が入る。まだ60歳になっていないのでは。資料館に何日も宿泊されたことがあるクラウン夫妻。なんといっていいのやら。死因はまだわからない。
10月29日(水) 晴れ 資料館
サーカス学校に顔を出し、すぐに資料館戻り。
資料整理を少々。『からのリュック〜』を少し。
女房殿の帰宅が遅く、娘が心配して電話してくる。どうやら彼女は久しぶりに食事、能見にいったらしい。
トランプ大統領の来日に、日本側の対応、防衛費増額の前倒しなど、なんとも亡国的な
対応。なんとも情けない高市政権だ。しかも、トランプをノーベル平和賞に推薦するとか。
*
学校へ行く前に、トーモー通商によって車にガスを入れる。
先日、水曜日が休みと勘違いして、木曜日に入れようと思ったら、木曜日が定休日だった、ドジ。最近、今日は何日だっけとわからなくなることあり。これって、運転免許書き換えに時に試験に出るよね、今日は何日ですか?って、やばいよね。
次第に寒くなってきている。昨夜からストーブに火を入れる。
*
ロジェ・グルニエ著『ライムライト』を再読し始める。再読といっても、さて、この本をいつ読んだのか。ところどころ付箋がつけてある。この本は、チャップリンが制作・脚本・監督・作曲、かつ主演した映画『ライムライト』を、記述に置き換えた作品だった。と解説を読んで初めて知る。『ライムライト』という小説があって、それをチャップリンが映画にしたと思っていたが、大きな間違えであった。なんでもこの手の、映画が先にあってそのシナリオ、映画を小説化するのを「シネ・ロマン」というらしいが、そういうことも知らなかった。
10月28日(火) 晴れ 洗濯物を干す
相変わらず、携帯は復旧せず。サーカス学校で一度だけ関口さんと携帯電話で話しができたが、ほかは相変わらず、使えず。Wi-Hiもつながらない。くそったれ!
*
太田市関連の公演の音響について、学校で打ち合わせ。今後の太田市の打ち合わせを油布君に一任。とにかく最近の音響機材などは全くわからないので。学校の誰かが引き受けてくれると大助かりだ。
『からのリュック〜』。途中から他の話を書き込んでみる。廃墟の城壁へと登っていく坂綱の若者が登場。砂小僧、綱渡りの若者などが、主人公とともに砂漠を進んでいく話へとうまく書き込めるかが勝負なのだが。
さて、サーカスとアナーキズムだ。
アナーキーなサーカスとして思い出すのは、フランスのアルカオスという、はちゃめちゃな前衛サーカスだ。いわゆるまともなサーカス技はでてこない。デンノコ、オートバイ、トタン板などの道具が主役で、それを人間が振り回しているような振り回されているようなはちゃめちゃな舞台の、いわばアナーキーな運動会の様だ。ビィトンという名前だったか、その団長は音響室でビデオテープを食っていた。ほかにドイツのサーカスで、今は名前が出てこないが、やはり前衛的なサーカスで、筋骨隆々な女性が、洗面器に5分以上も顔をつけているというのがひとつの演技になっていた。
こうやってみていくと、アナーキーではめちゃめちゃな、バイオレンスチックな、現代サーカスという言い方も成立するかもしれない。このあたりを手がかりにアナーキーサーカスを構築してみるのもありかなという気がする。完璧さを追求するサーカスの技の世界と対抗する、非合理的な、暴力的であったり、めちゃくちゃな運動の世界というところにアナーキーサーカスを見てみる、そうした世界を構築するのはどうだろうか。これにチャレンンジするのは悪くない気がする。
もうひとつ、僕の頭の中にあるのは、記憶と物語のふたつの世界をことばと想像力を駆使して結び付けた文字での表現の試みである。『カラのリュックサックを背負って』は、そうした世界を描く小説としてイメージされているのだが。このところ、待ったく書けていない、みじめな
10月27日(月) 曇り サーカス村に移動
8時に駐車場を出発。環八が混んできて、フジマート到着が13時と、ここまで5時間かかってしまった。まあ、フツーの所要時間かな。
資料館の庭に上がるところの、大きな栗の木の切り株に、ものすごい量のキノコが生えている。多分、毒キノコだろう。中央にある白いキノコはどうやら猿の腰掛になるキノコらしい。調べればこちらは食べれるとあるが、とても食べる気にはなれない。
*
携帯が半壊というか、メールのLine以外が使えない。Lineの電話もつながらないし、電話もつながらない。メールもこないようだ。はて、困ったぞと思ったものの、まあ、いいか、このままほったらかすかの気分でいる。
寒いので、小さな電気ストーブにまきストーブでマキを燃やす。
10月26日(日) 曇り 自宅
栗原康著『アナーキズム Q&A』を読んでいる。面白いのだが、自分として、どのようにこのアナーキーの世界の運動を生かせるかと考えると、はたと止まってしまう。
*
というのも、サーカスとアナーキーがどのように結びつくかを考え、はて?と首をひねっているからだ。フツーには結びつかないのだが、こじつけでも結び付けないことには、僕の立場がないなと思っている。サーカスの学校を行いサーカスアーティストを育て、海外のサーカスアーティストを編成してそのチームの日本公演を幾つも実施している身でありながら、個人的にはアナーキーでありたいと思っているので、サーカスとアナーキーがなんとか結びつかないかことには、自分ありの立場がないと考えざるをえないのだ。だが、自分への宿題はなかなか解決の糸口がない。サーカスの技の世界はどちらかといえば、それぞれの芸は完璧さをもとめているというか、それが基本であり、ひとつのショーとしてかんあげれば、そこにクラウン・道化師という、アンチ完璧さというか、完璧なものをちゃらかす役割のパフォーマーが登場して、言って見ればこの世の中は完璧さだけではなくそれがほころび壊れる世界でもあることを表現しているといえる。それを表現しているのが、サーカスのショーの世界と言えるのではないか。と言って、道化師。クラウンがアナーキーであるとは言えない。道化師、クラウンの演技、その完璧さをぶっ壊す、あざ笑う、ちゃらかす演技は、実はきちんと計算され訓練された技であって、その場かぎりの単なるおふざけでの世界ではない。たしかに、アナーキーな人々、グループが計画的に既存の世界のものを破壊するのもまた、単なる思いつきである以上に計画された反抗、反乱として行われるのではないか。ということは、アナーキーもまたその計画性という面からみれば、サーカスの完璧さを求める立場とどこかで共通点があると言えるかもしれない。
だが、やはりサーカスの世界とアナーキーの世界は、類似点が多いというか差異のほうが多いのではないかと思えるのだが。
朝6時45分に資料館を出て、葉山に向かう。順調に車は進み、11時4 5分に駐車場着。使用時間はジャスト5時間。雨に降られずに済む。
コンビニで購入したパンで昼食を済ませ、昼寝。4時過ぎから新聞整理。
10月30日(木) 晴れのち曇り サーカス学校
午前中、大間々のセキチューへ。電池やらトイレットペーパーなど買出しに。
太田市の青少年剣山育成表彰式のイベントとしてのサーカス学校公演の件で、トラブルというか、リハーサル時間が取れないなどの問題が生じて、少しゴタゴタするが、前日にリハーサルを行うことで解決。
*
ロシアのツィチーの奥さんゾフラさんが急逝された連絡が入る。まだ60歳になっていないのでは。資料館に何日も宿泊されたことがあるクラウン夫妻。なんといっていいのやら。死因はまだわからない。
10月29日(水) 晴れ 資料館
サーカス学校に顔を出し、すぐに資料館戻り。
資料整理を少々。『からのリュック〜』を少し。
女房殿の帰宅が遅く、娘が心配して電話してくる。どうやら彼女は久しぶりに食事、能見にいったらしい。
トランプ大統領の来日に、日本側の対応、防衛費増額の前倒しなど、なんとも亡国的な
対応。なんとも情けない高市政権だ。しかも、トランプをノーベル平和賞に推薦するとか。
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学校へ行く前に、トーモー通商によって車にガスを入れる。
先日、水曜日が休みと勘違いして、木曜日に入れようと思ったら、木曜日が定休日だった、ドジ。最近、今日は何日だっけとわからなくなることあり。これって、運転免許書き換えに時に試験に出るよね、今日は何日ですか?って、やばいよね。
次第に寒くなってきている。昨夜からストーブに火を入れる。
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ロジェ・グルニエ著『ライムライト』を再読し始める。再読といっても、さて、この本をいつ読んだのか。ところどころ付箋がつけてある。この本は、チャップリンが制作・脚本・監督・作曲、かつ主演した映画『ライムライト』を、記述に置き換えた作品だった。と解説を読んで初めて知る。『ライムライト』という小説があって、それをチャップリンが映画にしたと思っていたが、大きな間違えであった。なんでもこの手の、映画が先にあってそのシナリオ、映画を小説化するのを「シネ・ロマン」というらしいが、そういうことも知らなかった。
10月28日(火) 晴れ 洗濯物を干す
相変わらず、携帯は復旧せず。サーカス学校で一度だけ関口さんと携帯電話で話しができたが、ほかは相変わらず、使えず。Wi-Hiもつながらない。くそったれ!
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太田市関連の公演の音響について、学校で打ち合わせ。今後の太田市の打ち合わせを油布君に一任。とにかく最近の音響機材などは全くわからないので。学校の誰かが引き受けてくれると大助かりだ。
『からのリュック〜』。途中から他の話を書き込んでみる。廃墟の城壁へと登っていく坂綱の若者が登場。砂小僧、綱渡りの若者などが、主人公とともに砂漠を進んでいく話へとうまく書き込めるかが勝負なのだが。
さて、サーカスとアナーキズムだ。
アナーキーなサーカスとして思い出すのは、フランスのアルカオスという、はちゃめちゃな前衛サーカスだ。いわゆるまともなサーカス技はでてこない。デンノコ、オートバイ、トタン板などの道具が主役で、それを人間が振り回しているような振り回されているようなはちゃめちゃな舞台の、いわばアナーキーな運動会の様だ。ビィトンという名前だったか、その団長は音響室でビデオテープを食っていた。ほかにドイツのサーカスで、今は名前が出てこないが、やはり前衛的なサーカスで、筋骨隆々な女性が、洗面器に5分以上も顔をつけているというのがひとつの演技になっていた。
こうやってみていくと、アナーキーではめちゃめちゃな、バイオレンスチックな、現代サーカスという言い方も成立するかもしれない。このあたりを手がかりにアナーキーサーカスを構築してみるのもありかなという気がする。完璧さを追求するサーカスの技の世界と対抗する、非合理的な、暴力的であったり、めちゃくちゃな運動の世界というところにアナーキーサーカスを見てみる、そうした世界を構築するのはどうだろうか。これにチャレンンジするのは悪くない気がする。
もうひとつ、僕の頭の中にあるのは、記憶と物語のふたつの世界をことばと想像力を駆使して結び付けた文字での表現の試みである。『カラのリュックサックを背負って』は、そうした世界を描く小説としてイメージされているのだが。このところ、待ったく書けていない、みじめな
10月27日(月) 曇り サーカス村に移動
8時に駐車場を出発。環八が混んできて、フジマート到着が13時と、ここまで5時間かかってしまった。まあ、フツーの所要時間かな。
資料館の庭に上がるところの、大きな栗の木の切り株に、ものすごい量のキノコが生えている。多分、毒キノコだろう。中央にある白いキノコはどうやら猿の腰掛になるキノコらしい。調べればこちらは食べれるとあるが、とても食べる気にはなれない。
*
携帯が半壊というか、メールのLine以外が使えない。Lineの電話もつながらないし、電話もつながらない。メールもこないようだ。はて、困ったぞと思ったものの、まあ、いいか、このままほったらかすかの気分でいる。
寒いので、小さな電気ストーブにまきストーブでマキを燃やす。
10月26日(日) 曇り 自宅
栗原康著『アナーキズム Q&A』を読んでいる。面白いのだが、自分として、どのようにこのアナーキーの世界の運動を生かせるかと考えると、はたと止まってしまう。
*
というのも、サーカスとアナーキーがどのように結びつくかを考え、はて?と首をひねっているからだ。フツーには結びつかないのだが、こじつけでも結び付けないことには、僕の立場がないなと思っている。サーカスの学校を行いサーカスアーティストを育て、海外のサーカスアーティストを編成してそのチームの日本公演を幾つも実施している身でありながら、個人的にはアナーキーでありたいと思っているので、サーカスとアナーキーがなんとか結びつかないかことには、自分ありの立場がないと考えざるをえないのだ。だが、自分への宿題はなかなか解決の糸口がない。サーカスの技の世界はどちらかといえば、それぞれの芸は完璧さをもとめているというか、それが基本であり、ひとつのショーとしてかんあげれば、そこにクラウン・道化師という、アンチ完璧さというか、完璧なものをちゃらかす役割のパフォーマーが登場して、言って見ればこの世の中は完璧さだけではなくそれがほころび壊れる世界でもあることを表現しているといえる。それを表現しているのが、サーカスのショーの世界と言えるのではないか。と言って、道化師。クラウンがアナーキーであるとは言えない。道化師、クラウンの演技、その完璧さをぶっ壊す、あざ笑う、ちゃらかす演技は、実はきちんと計算され訓練された技であって、その場かぎりの単なるおふざけでの世界ではない。たしかに、アナーキーな人々、グループが計画的に既存の世界のものを破壊するのもまた、単なる思いつきである以上に計画された反抗、反乱として行われるのではないか。ということは、アナーキーもまたその計画性という面からみれば、サーカスの完璧さを求める立場とどこかで共通点があると言えるかもしれない。
だが、やはりサーカスの世界とアナーキーの世界は、類似点が多いというか差異のほうが多いのではないかと思えるのだが。
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