グレートモスクワサーカスの魅力

ロシアのサーカスといえば、誰もがボリショイサーカスを思い浮かべるだろう。
それだけに、グレートモスクワサーカスってどんなサーカスという疑問を持つ人も多いにちがいない。
 
 ボリショイサーカスというのは、ソ連時代に、
国の文化機関のひとつであったサーカス公団が海外で公演するときの、いわばブランド名で、
ボリショイサーカス団という組織は、ソ連には存在しない。
言いかえれば、ソ連からやってくるサーカスはずべてボリショイサーカスだった。
ところが、1991年のソ連の崩壊によって、旧ソ連の国々の多くが共和国となり、
それぞれが独自にサーカスを運営することになったので、
海外での公演には、それぞれの国の名前を使用するようになり、
たとえばウクライナサーカス、カザフスタンサーカスと表記されることが多くなっている。
 そこでロシアなのだが、実は、ロシアでは、国や市から支援を受けているとはいえ、
いくつかのサーカス団(企業)が組織されるようになり、
モスクワには、このグレートモスクワサーカスとニクーリンサーカスが誕生し、現在に至っている。
旧ソ連邦が崩壊したのち、こうした組織がすんなりと生まれたわけではなく、
さまざまなプロセスを経てきているのはいうまでもなく、この間、独立し、
自分たちの公演をおこなったサーカスアーティスト、プロデュサーは多いし、
海外に活躍の場を求めたサーカス関系者も多い。
だが、いまではロシアサーカス業界も落ち着きを取りもどし、このふたつの団体が、
かつてのサーカス公団が創作していた以上のショーを次々と作りだしているといっても過言ではないだろう。

伝統と革新
 
特に、グレートモスクワサーカスは、ロシアを代表するサーカス団としての自負もあり、
世界のサーカス、ショービジネスにも注目しつつ、斬新な技を次々に生みだしている。
そこには、社会主義体制が崩壊したといえ、ロシア革命以降、
長いあいだ培われてきたサーカス芸術を、
国の新たな体制に見当たったかたちで再創造していこうという人々の強い意志、
そして願いがあるように思われる。
それこそが、サーカスに生きる人々の魂かもしれない。
サーカスには、いつだって観客がいる。
子供連れ、家族、恋人たち、そしてサーカスが大好きでしょうがない人々。
そうした人々が、いまではサーカスのリングに限らず、
オリンピックのオープニングセレモニーからさまざまな商業施設でのイベントなどで
行なわれるサーカスアクトに目を凝らし、惜しみない拍手を送る。
その観客の歓喜がサーカスアーティストたちに伝わり、彼らの達成感となる。
それがサーカスではないだろうか。
そうした作品を観客の前に披露するために、ロシアのサーカスは、
サーカスアクトの習得だけではなく、バレエ、モダンダンスを学び、
それぞれの作品を完成度の高いものにするために、演出家やミュージッシャンが加わる。
そうした演目作りにこそ、ロシアのサーカスの伝統があり、
他の追従をゆるさないショーの世界があるのではないだろうか。
 
 
ロシアサーカスとレオニード・カスチューク
 
 
現在、このグレートモスクワサーカスの総裁である、
レオニード・カスチュークにお会いしたのは、一九八七年、
中国の石家荘市で行なわれた第一回中国呉橋国際雑技芸術節という競技大会だったと思う。
ということは、ソ連がまだ崩壊していない時期であり、
当時彼はサーカス公団の総裁ではなかったとはいえ、
要職についていたにちがいないが、その彼が現在、
このグレートモスクワサーカスを率いているということは、
ソ連崩壊後の混乱期を乗り切るだけの実力とアーティストたちの人望があったからであろう。
実は、彼自身、額に上で長い棒を支え、その上に何人かの人が上って演技する、
日本風にいえば“差し物”のアーティストであった。
その芸は今でも最高の技のひとつといえるが、それだけに彼のサーカスアクトに対する要求は高い。
こうしたことをいろいろ考え合わせる合わせると、それはカスチューク個人のことではなく、
ロシアサーカスが積みかせねてきた、たえまない努力と創造が、
グレートモスクワサーカスに具現化しているのではないかと創造できる。
ユーミンがシャングリラパートⅢを創るときに、どこの国の、
どこのサーカスと組むかという相談を受けたが、その時に真っ先に頭に浮かんだのは、
グレートモスクワサーカスであり、髭づらに、優しい目をしたカスチュークの顔であった。
ユーミン側のさまざまな要求に応えられるだけの技量と融通性のあるグループは他にないとう確信があった。
今回の最高の料理と最高のサーカスアクトの組み合わせという企画が生まれたとき、
このロシアのサーカス以外には考えられなったのではないかと思う。
ぼくらは、今や至福のときを味わうことができる機会に恵まれたのである。