2026-4-25(作業日誌633)
4月25日(土) 晴れ 自宅
福岡の岡部範子さんから、亡くなった岡部文昭さんの画集と彼女の思い出の2冊が函に収められている本が葉山に届いていたので、それを見る。絵画集のところだけまず見る。文章はゆっくり読もう。
新聞の整理、女房殿の本2冊を発送準備など、午前中は、とりあえずは雑用処理。
リコーのFreeWillへの申請書類を大須賀さんに作ってもらう。
今日は1日、デスクワーク。久しぶりだ。
4月24日(金) 晴れ 葉山帰り
朝、学校に顔を出し、10時過ぎに車にガスを入れて葉山に向かう。5月の連休に入るので二週間はサーカス村に来ないので、それとなく資料館の片付けをする。
ところで、サーカス、大道芸からいくらか身をひいてみるという気持ち、同時にその結果どのような考え方が生まれるのか、またサーカスの世界に舞い戻ると思うが、すると、どのようにサーカスが見えるのかなと思ってみたりする。まあ、今、考えても仕方がないのだが。
4月23日(木) 雨降るかな
今日は6時前から起きて、仕事をする。今日は雨が降る予定だが降るかな。かなり寒い1日が始まる。
昨夜の夢ものがたり、、。サーカス、大道芸、ダンス、パフーマンスなどなど、フィジカルパフォーマンスの世界はいろいろと広がっているが、そもそもサーカスはかつて経営者たちがその公演を“商売”と表現していた通り営業活動であったし、エンターティメントの枠で語られるものは基本的に“商売”であり、英語でもショービジネスというではないか。大道芸もある意味で個人的な商売だ。だが、フィジカルパフーマンスという語り口には、商売というよりも、アート、芸術的な意味合いがあるのかもしれない。
今、多くの人々に人気があるサーカス、大道芸に、このところなんとなく距離を感じているのは、実はその“商売”としての一面が強く感じられているからに他ならないのだが、そのことについてあれこれ考えているうちに、先日訪れた小さな画廊で目についたチラシには、出演者10名のうち、電子音楽、舞踏が各一名で、ダンスというのはなく、他の8名はみなパフォーマンスというカテゴリーとなっていた。
どうやら身体を道具として表現するアーティストたちは、自分たちの表現のジャンルをパフォーマンスと括るのかと知らされたというか、理解したのだが、この英語を日本語にして実演とか演技とかにしてしまうと、彼らは満足しないのではないかと思える。多分、出演者たちは自分たちの公演を、考え抜きまた相当に練習して舞台に臨んでいるだろうから、そこにはアートとして見てもらいたい気持ちがあるようにえるからだ。もちろん、練習している時も常に新しい動きを追求し、同じアクトを繰り返し練習して精度を高めていくという練習をしていない表現者もいるだろうが。それはそれである。
そんなことを考えながら、ふと思いついたのは、なにもこのパフォーマンスやダンス、あるいはサーカス、大道芸の世界だけでなく、政治的な集会やデモ、あるいは雑踏のなかに、新しい身体的表現を探して求めてもいいのではないかという考え方が浮かんできた。
もちろん、サーカスやダンス、舞踏などの世界にも新しい身体表現を追求している作品が海外にはいろいろあるようなので、そういう作品に注目する必要があるかもしれない。
どうやらサーカスや大道芸フェスに足を運ばなくなっても、出かけなければならない場所はいろいろとありそうだ。
*
何かを書いていくためにはある種の“自由な感覚”が必要な気がするが、サーカス、大道芸からある程度の距離を取る考えを持つことで、この“自由な感覚”をつかむ持ことができるような気がしている。これは大事なことではないだろうか。この気持ちを持って、『やし酒飲み』を分析してみようと思う。
半世紀近い時間、サーカス、大道芸にこだわってきたのだが、そこからある程度、距離をとると、そこに間のようなものを感じることができると、これまでとは異なる空間に身をおいているような、それだけにこれまでとは違う感性、考えがうまれてくるような気がしているし、オーバーにいえば、見えている風景さえもがこれまでとは違って見えてきているような気がするのだが、どうゆう見え方をしているかといえば、これまでとは違った澄んだ空気のなかに風景が見えている気がするのである。あるいは、それは、これまではサーカス大道芸になにかを価値あるものを見出さなければならないという考えに囚われていたからかもしれない。ひょうっとすると、今後、サーカス、大道芸についてもこれまでとは違った見方ができるかもしれない。それらに対して光の当て方が違ってくるかもしれないのだ。変な言い方だが、自分の感性が一皮剥けたのだろうか。
4月22日(水) 晴れ サーカス学校
残念ながら、新入生の一人が帰ってしまった。やはり共同生活が向いていないのか。また行きたいと考えるようになってくれればいいのだが、
*
半世紀ほど前の1970年台には、やがて日本のサーカスは消えなくなるのではないかと予測というか考えられていた時期もあったが、現代、確かに日本のサーカスは無くなってはいないが、その姿は大きく変わっているし、一方で大道芸は花盛りの様を呈している。伝統的な日本のサーカスの消滅が危惧された時代と現代のサーカス、大道芸の流行とを比べること自体に無理があるかもしれないが、それはそれとして、そのどちらも現代では仕事というか、金銭的な対価を求めるもの、仕事、職業にとして成立しているような気がする。もちろん昔も金銭的なものを求めていたが、ごく一部の人々をのぞいて十分な収入は得られなかったようだ。
多くの人々の関心を引かないにもかかわらず、サーカス技や大道芸を身につけようとしていた時代には、それなりの思い込みというか、金銭的な収入とは別な目的があったような気がするし、あるいはそもそもあまり金銭的な見返りはほぼ期待できなかったためになぜ自分がそうしたものにこだわっているかを納得するために自分が行なっていることについて考える必要があつたのかもしれないのだが、今やそれなりの収入が得られる時代になったにもかかわらず、そうしたものを感じさせてくれるサーカス、大道芸パフォーマーはほぼいなくなっているように思える。世の中のほぼ全てに資本主義が貫徹してきているということかもしれないのだが、それでも自己表現、あるいはなんらかの芸術的な表現を求めて、サーカス技、大道芸を追求する人がもっと目に触れていいと思うのだが。
もちろんなにかを追求する、いわば営利はさておき、表現としての身体表現を追求する人々がいなくなったわけではないと思い、サーカス、大道芸にこだわらずに視野を広げてみると、そこに、ある種のダンスに向きあっている人々の姿が浮かびあがってくるように思える。
それらの人々はなにかを表現しようと格闘しその結果として舞台に立っているように思えるのだが、これまでそうした舞台をいくつも見ているわけではないし、また、それらの舞台を見ていたときに、僕自身がダンスとして見てきているので、ダンスではないものとしての見方をしていなかったことに、今更ながら気がつき、自分の愚鈍さに呆れかえざるを得ないのだが。
こうして書いてみると、今や自分の関心がサーカスや大道芸ではなく、新たな表現を求めて、自分の身体に向き合い格闘している人々、身体表現を試みている人々に移動していることに気付かさられる。これから自分の向きあう世界がそこにあるのではないかと思うと、サーカス、大道芸の世界から少しばかり自分の関心が移っているのだが、さて、今後どのような世界へ足を踏み入れることになるのだろうか。
*
ドヤ顔について考えている。
ドヤ顔つまり、どんなもんだいと開き直っている押しつけがましいしたり顔。
政治家の顔。トランプ、プーチン、最強は金日恩、ネタニヤフなどなど。
つまり裸の王様たち。彼らの思い上がりのガスを抜くにはどうしたらいいのか。
4月21日(火)サーカス村に移動
出発が遅くなり9時前に。混んでいなかったが、6時間かかってしまった。到着してみると、身体がグタグタであった。しばし休んで横になったが、CDをかけていたせいか、
眠れず。5時前に起きて、夕食に買ったソースカツ丼とキャベツ入り湯豆腐で夕食。
ウィスキーの角を買って飲んでみたが、普段飲んでいるホワイトホースのほうが味があって美味い気がする。飲み慣れているせいかも。今日は学校には行かず。
寒くてストーブに火を入れる。右足首の踝の痛みがひどい。些か辛い。
福岡の岡部範子さんから、亡くなった岡部文昭さんの画集と彼女の思い出の2冊が函に収められている本が葉山に届いていたので、それを見る。絵画集のところだけまず見る。文章はゆっくり読もう。
新聞の整理、女房殿の本2冊を発送準備など、午前中は、とりあえずは雑用処理。
リコーのFreeWillへの申請書類を大須賀さんに作ってもらう。
今日は1日、デスクワーク。久しぶりだ。
4月24日(金) 晴れ 葉山帰り
朝、学校に顔を出し、10時過ぎに車にガスを入れて葉山に向かう。5月の連休に入るので二週間はサーカス村に来ないので、それとなく資料館の片付けをする。
ところで、サーカス、大道芸からいくらか身をひいてみるという気持ち、同時にその結果どのような考え方が生まれるのか、またサーカスの世界に舞い戻ると思うが、すると、どのようにサーカスが見えるのかなと思ってみたりする。まあ、今、考えても仕方がないのだが。
4月23日(木) 雨降るかな
今日は6時前から起きて、仕事をする。今日は雨が降る予定だが降るかな。かなり寒い1日が始まる。
昨夜の夢ものがたり、、。サーカス、大道芸、ダンス、パフーマンスなどなど、フィジカルパフォーマンスの世界はいろいろと広がっているが、そもそもサーカスはかつて経営者たちがその公演を“商売”と表現していた通り営業活動であったし、エンターティメントの枠で語られるものは基本的に“商売”であり、英語でもショービジネスというではないか。大道芸もある意味で個人的な商売だ。だが、フィジカルパフーマンスという語り口には、商売というよりも、アート、芸術的な意味合いがあるのかもしれない。
今、多くの人々に人気があるサーカス、大道芸に、このところなんとなく距離を感じているのは、実はその“商売”としての一面が強く感じられているからに他ならないのだが、そのことについてあれこれ考えているうちに、先日訪れた小さな画廊で目についたチラシには、出演者10名のうち、電子音楽、舞踏が各一名で、ダンスというのはなく、他の8名はみなパフォーマンスというカテゴリーとなっていた。
どうやら身体を道具として表現するアーティストたちは、自分たちの表現のジャンルをパフォーマンスと括るのかと知らされたというか、理解したのだが、この英語を日本語にして実演とか演技とかにしてしまうと、彼らは満足しないのではないかと思える。多分、出演者たちは自分たちの公演を、考え抜きまた相当に練習して舞台に臨んでいるだろうから、そこにはアートとして見てもらいたい気持ちがあるようにえるからだ。もちろん、練習している時も常に新しい動きを追求し、同じアクトを繰り返し練習して精度を高めていくという練習をしていない表現者もいるだろうが。それはそれである。
そんなことを考えながら、ふと思いついたのは、なにもこのパフォーマンスやダンス、あるいはサーカス、大道芸の世界だけでなく、政治的な集会やデモ、あるいは雑踏のなかに、新しい身体的表現を探して求めてもいいのではないかという考え方が浮かんできた。
もちろん、サーカスやダンス、舞踏などの世界にも新しい身体表現を追求している作品が海外にはいろいろあるようなので、そういう作品に注目する必要があるかもしれない。
どうやらサーカスや大道芸フェスに足を運ばなくなっても、出かけなければならない場所はいろいろとありそうだ。
*
何かを書いていくためにはある種の“自由な感覚”が必要な気がするが、サーカス、大道芸からある程度の距離を取る考えを持つことで、この“自由な感覚”をつかむ持ことができるような気がしている。これは大事なことではないだろうか。この気持ちを持って、『やし酒飲み』を分析してみようと思う。
半世紀近い時間、サーカス、大道芸にこだわってきたのだが、そこからある程度、距離をとると、そこに間のようなものを感じることができると、これまでとは異なる空間に身をおいているような、それだけにこれまでとは違う感性、考えがうまれてくるような気がしているし、オーバーにいえば、見えている風景さえもがこれまでとは違って見えてきているような気がするのだが、どうゆう見え方をしているかといえば、これまでとは違った澄んだ空気のなかに風景が見えている気がするのである。あるいは、それは、これまではサーカス大道芸になにかを価値あるものを見出さなければならないという考えに囚われていたからかもしれない。ひょうっとすると、今後、サーカス、大道芸についてもこれまでとは違った見方ができるかもしれない。それらに対して光の当て方が違ってくるかもしれないのだ。変な言い方だが、自分の感性が一皮剥けたのだろうか。
4月22日(水) 晴れ サーカス学校
残念ながら、新入生の一人が帰ってしまった。やはり共同生活が向いていないのか。また行きたいと考えるようになってくれればいいのだが、
*
半世紀ほど前の1970年台には、やがて日本のサーカスは消えなくなるのではないかと予測というか考えられていた時期もあったが、現代、確かに日本のサーカスは無くなってはいないが、その姿は大きく変わっているし、一方で大道芸は花盛りの様を呈している。伝統的な日本のサーカスの消滅が危惧された時代と現代のサーカス、大道芸の流行とを比べること自体に無理があるかもしれないが、それはそれとして、そのどちらも現代では仕事というか、金銭的な対価を求めるもの、仕事、職業にとして成立しているような気がする。もちろん昔も金銭的なものを求めていたが、ごく一部の人々をのぞいて十分な収入は得られなかったようだ。
多くの人々の関心を引かないにもかかわらず、サーカス技や大道芸を身につけようとしていた時代には、それなりの思い込みというか、金銭的な収入とは別な目的があったような気がするし、あるいはそもそもあまり金銭的な見返りはほぼ期待できなかったためになぜ自分がそうしたものにこだわっているかを納得するために自分が行なっていることについて考える必要があつたのかもしれないのだが、今やそれなりの収入が得られる時代になったにもかかわらず、そうしたものを感じさせてくれるサーカス、大道芸パフォーマーはほぼいなくなっているように思える。世の中のほぼ全てに資本主義が貫徹してきているということかもしれないのだが、それでも自己表現、あるいはなんらかの芸術的な表現を求めて、サーカス技、大道芸を追求する人がもっと目に触れていいと思うのだが。
もちろんなにかを追求する、いわば営利はさておき、表現としての身体表現を追求する人々がいなくなったわけではないと思い、サーカス、大道芸にこだわらずに視野を広げてみると、そこに、ある種のダンスに向きあっている人々の姿が浮かびあがってくるように思える。
それらの人々はなにかを表現しようと格闘しその結果として舞台に立っているように思えるのだが、これまでそうした舞台をいくつも見ているわけではないし、また、それらの舞台を見ていたときに、僕自身がダンスとして見てきているので、ダンスではないものとしての見方をしていなかったことに、今更ながら気がつき、自分の愚鈍さに呆れかえざるを得ないのだが。
こうして書いてみると、今や自分の関心がサーカスや大道芸ではなく、新たな表現を求めて、自分の身体に向き合い格闘している人々、身体表現を試みている人々に移動していることに気付かさられる。これから自分の向きあう世界がそこにあるのではないかと思うと、サーカス、大道芸の世界から少しばかり自分の関心が移っているのだが、さて、今後どのような世界へ足を踏み入れることになるのだろうか。
*
ドヤ顔について考えている。
ドヤ顔つまり、どんなもんだいと開き直っている押しつけがましいしたり顔。
政治家の顔。トランプ、プーチン、最強は金日恩、ネタニヤフなどなど。
つまり裸の王様たち。彼らの思い上がりのガスを抜くにはどうしたらいいのか。
4月21日(火)サーカス村に移動
出発が遅くなり9時前に。混んでいなかったが、6時間かかってしまった。到着してみると、身体がグタグタであった。しばし休んで横になったが、CDをかけていたせいか、
眠れず。5時前に起きて、夕食に買ったソースカツ丼とキャベツ入り湯豆腐で夕食。
ウィスキーの角を買って飲んでみたが、普段飲んでいるホワイトホースのほうが味があって美味い気がする。飲み慣れているせいかも。今日は学校には行かず。
寒くてストーブに火を入れる。右足首の踝の痛みがひどい。些か辛い。
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